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Lifestyle 公開日: 2019.06.20

デジタルと心理学の知見で、職場に健康経営を――東京大学下山教授に聞く

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あなたの会社では、社員の心のケア、できていますか?メンタルヘルスの改善にデジタルで挑む。

 「社員が快適に、かつパフォーマンスを発揮しながら働ける職場づくりを」――働き方改革、健康経営が話題になる中で、デジタル技術を職場のメンタルヘルス支援に活用しようという取り組みが進められている。東京大学大学院教育学研究科の下山晴彦教授(臨床心理学コース)は、2019年4月にANAエアポートサービスと共同研究を開始した(東京大学の発表情報はこちら)。デジタル技術や心理学の知見を生かして職場を活性化させようという狙いである。

 ANAエアポートサービスはANAホールディングスの子会社で、空港での旅客サービス業務を手掛ける。空港業務は早朝・深夜の勤務があるうえにクレーム対応がつきもの。羽田空港の国際線発着枠の拡大に備えて従業員を増やしているが、心理的負担が大きいことに変わりはない。職場のストレス負荷を抑え、従業員のモチベーションを維持できる職場づくりは経営課題となっている。

 職場のメンタルヘルス維持・向上にデジタル技術をどう活用できるのか。その先にある健康的な職場とはどのようなものか。下山氏に聞いた。

メンタルケアをもっと効率的に

── ANAエアポートサービスと共同研究を開めましたね。メンタルヘルスにITはどう役立つのでしょうか。

下山氏 あくまでもITはツールでしかありません。ただ、コンピュータやインターネットを使うことでより効果的な健康経営を実現できるようになります。
 私たちは、職場における心の健康をサポートする方法を研究しています。民間企業などの協力も得て研究してきた成果の一つが、2018年に発表した「ココロ・ストレッチ」というサービスです。これは企業向けのサービスで、社員一人ひとりのメンタルヘルス向上をサポートするものです。エンジニアの派遣事業を手がけるリツアンSTCと共同で、サービスの有効性について検証を進めてきました。(写真は東京大学大学院教育学研究科の下山晴彦教授(臨床心理学コース)(筆者撮影))
 ココロ・ストレッチは、社員がPCやスマホアプリを通じて、メンタルヘルスに関する知識を自然と学べる仕掛けになっています。最大のポイントは、メンタルが不調になってからではなく、日常的に利用する点です。働く中で生じ、積み重なってくるストレスに柔軟に対応できるよう、レジリエンス(精神的回復力)を高めると同時に、メンタルの不調を予防し、社員の主体的な行動を促す内容になっています。

 代表的な機能の一つが、呼吸法を指導する「呼吸レッスン」の機能です。呼吸法は心の落ち着きを取り戻すのに非常に有効な手段です。これを効果的に実践できるよう、アプリ画面で呼吸法をわかりやすくガイドします。ほかに、アプリからの質問に答えていくことで、自分の心身の状態をセルフチェックし、その状態に応じたメンタルケアの方法を学べるようにもなっています。
「ココロ・ストレッチ」の画面例。質問に答えていくことで、自分の心身の状態をセルフチェックできる(画像提供:東京大学下山研究室)
 アプリから、臨床心理士など専属の心理アドバイザーに相談できる機能も備えています。サービスとして提携したアドバイザーを用意しているので、会社側に知られることなく相談できるようになっています。

 ANAエアポートサービスとの共同研究では、このココロ・ストレッチをカスタマイズし、主に新入社員向けとして提供することを検討しています。社会人歴が浅い人は、ストレスにさらされた際にどうすればいいか、適切な対処法を知らないことが多いためです。
呼吸法を指導する「呼吸レッスン」機能の画面例。アプリの画面に沿うことで効果的な呼吸を実践できる(画像提供:東京大学下山研究室)

日本に蔓延する「サービスギャップ」を埋める

── ココロ・ストレッチのようなツールを用意した理由と、それを企業向けに提供しようと考えた背景を教えてください。

下山氏 現代人は一般的に、仕事に長い時間を費やしています。そのため、悩みの多くを仕事に関わることや職場の人間関係になります。ですから、現代人のメンタルケアとしては、職場という観点が不可欠です。

 一方で、企業では「働き方改革」や「健康経営」に対する意識が高まりつつあります。それなら、企業を通じたサポートとするほうが、確実かつ効果的に個々人にアプローチできると考えました。

 メンタルヘルスのサポートでは、メンタルケアの知識や情報を、正しく、しっかりと提供することが大切です。当然、そういった情報にアクセスしやすい仕組みを作らなければなりません。PCやスマホで利用できるようにすれば、社員は時間や場所に関係なくアクセスできます。個々人にパーソナライズした機能を提供できる点もIT活用のメリットです。

 ひるがえって日本全体で見た場合には「サービスギャップ」の問題が大きく、これをITに基づいたアプローチで解消したいという思いもあります。

── サービスギャップとは何でしょうか。

下山氏 適切な支援が必要な人がいるにもかかわらず、適切な時期に、適切に支援できていない状況があることを指します。

 日本は欧米に比べると、メンタル分野のサービスが十分に発達していません。例えば英国などでは、メンタルの不調を訴える人の状態に応じて、適切なサービス提供者のところにガイドする仕組みが確立されています。ネットを通じた簡易なカウンセリングサービスで済むレベルなのか、カウンセラーによる本格的な心理相談が必要なのか、それとも精神科医による診療と投薬が必要な状態なのか、という具合にレベルを判別することで、適切にケアできるわけです。

 日本の場合、大きな問題が2つあります。1つめは、自分はどこに行くのが適切なのかが分かりにくいことです。薬が不要な軽症の人でも、最初から病院やクリニックの精神科、あるいは心療内科に診察を受けに行くことになります。このため、精神科や心療内科では患者が集中して、パンク状態が続いています。

 2つめの問題は「スティグマ(烙印)」です。スティグマとは、レッテルを貼られることで自分や周囲の行動が変わることを指します。メンタルケアの分野では、自分がうつ病などを抱えているという事実を周囲に知られるのを恐れていること、あるいは事実を知った周囲の態度が変わることを言います。

 スティグマは深刻な問題です。「うつ病だと会社にばれたら処遇に悪い影響が及ぶ」といった心配を抱えていると、治療を受けようという意志が働きにくくなります。日本では100万人規模の人がうつ病の治療を受けていますが、本来治療が必要な人のほんの4分の1程度だとさえ言われています。

 このようなサービスギャップがあるために、周囲が気づいたときにはかなりひどい状態になっている、といったことが起こります。うつ病は、早い段階で治療を始めればより早期に回復する傾向があります。だからこそ、サービスギャップを解消していかなければなりません。

 サービスギャップが生じる背景には、ビジネスパーソンの間でメンタルケアに関する正しい知識が不足していることもあります。正しい知識を身につければスティグマも減りますし、その結果、自分自身のセルフケアも進みやすくなります。周囲の人々と協力して適切な対策を講じやすくもなります。

「管理型」はもう限界

── 働き方改革や健康経営の話が出ましたが、職場のメンタルヘルスの現状をどのように見ていますか。

下山氏 近年、急速にこれらのキーワードが注目を浴びていますね。でも、本質的にはあまり変わっていないというのが正直な印象です。

 その根本には、「企業が社員のメンタルヘルスを管理する」というパラダイムから抜け出せていないことがあると見ています。要するに疾病を起点として対策を考えるという見方で、病気にかからないように社員を勤務時間などの数字で管理し、それでも社員が病気にかかったら医療機関に任せて治療を受けさせる、というスタンスです。これではいつまでたってもメンタル不調への根本対策は見いだせません。

 企業は社員の健康を守りたいはずです。それは、社員の休職や退職はコスト的にも実務上でも大きなダメージだからです。そうは言っても、事業環境が厳しく、経営の難易度が高まっている中で、社員に対するケアがどうしても行き届きにくくなるケースが多々見られます。

 そこで、「社員により快適に働いてもらうためにはどうするか」という考え方に基づいて、健康的に働くための知識や情報を社員一人ひとりに提供することが重要になります。企業側が最大限の経営努力をしつつ、社員が「自分で自分のメンタルをケアしながら働く」という文化を醸成していく必要があるわけです。

── 社員としても、所属する企業でモチベーションを維持しながら健康的に働き続けられるのであれば、それに越したことはありません。そのようなアプローチは従業員も受け入れやすいかもしれませんね。

メンタルケアのチームが組織改革の媒介に

── 会社が社員が快適に働ける環境を用意し、かつ社員が主体的にメンタルケアに取り組むようになると、職場はどう変わっていくのでしょうか。

下山氏 最近私は、職場は「管理型」から「対話型」に変わっていくべき、というメッセージを出しています。対話型とは、社員の声や社員が感じている問題の情報がきちんと社内で流通し、チームで問題解決に取り組める形態のことを指します。

 ANAエアポートサービスとの共同研究のベースにも敷いている考え方で、この共同研究プロジェクトでは、メンタルケアの取り組みを通じて対話型の組織に変革することを目指しています。

 仕組みの核となるのは、ANAエアポートサービス社内に常駐する公認心理師です。その後ろには私の研究室による臨床心理学チームがつき、公認心理師と臨床心理学チームが共同で、ANAエアポートサービスにおける約4000人規模の従業員をサポートします。

 公認心理師と臨床心理学チームは、ANAエアポートサービス社内に対してメンタルヘルスの情報を発信したり、社員からの相談を受けて適切な対処を講じたりします。今は社内のニーズを調査している段階なので具体的な取り組みはこれからですが、ケースバイケースで柔軟に対応します。例えば「先輩従業員がケアしたほうが適切」と考えられれば、そのような従業員同士によるケアを促すこともします。情報発信や相談などのやり取りには、先ほども挙げたココロ・ストレッチなども活用します。

 従業員のケアにAI(人工知能)を活用する可能性も検討しています。初歩的なケアはAIを使った対話アプリで対応し、必要に応じて人間に引き継ぐという想定です。すべての案件を人がきめ細かく対応できればそれに越したことはありませんが、現実には、それは困難です。過去に私の研究室ではマインドアイルというベンチャー企業と共にAI搭載の対話型メンタルヘルスアプリの「いっぷく堂」を開発しており、これの改良版を適用することも検討しています。

 もう一つ、公認心理師と臨床心理学チームの大事な機能としては、現場から得られた情報をまとめ上げ、マネジメント層に職場改革の参考情報としてレポートします。マネジメント側が現場の声を受け止め、それを基に職場の在り方や業務を改善するというアクションが何よりも大切です。

「優秀で繊細な人」が働き続けられるマネジメントが必要

下山氏 一般的に、日本の職場ではメンタルが不調になった従業員を「弱い人」とみなして切り捨てがちですが、メンタルが不調になった人は「業務のやり方を変えるべきなのに変えていない」といった経営上の不具合をいち早く察知してマネジメント層に知らせている存在だと考えられます。たとえがいいかどうかは別として、炭鉱に入るときのカナリヤのようなものです。

── 企業経営の世界では、複数人からなる組織を一つの人体、あるいは有機体とみなしてマネジメントに臨む思想があります。それに基づいて考えると、理にかなった捉え方と言えますね。

下山氏 組織の不全は現場とマネジメント層の間で情報が分断していることが大きな原因として挙げられます。そこでメンタルケアのチームを社内に設置し、それを介して現場とマネジメントの間で情報流通がスムーズになれば、組織がよりうまく回っていく可能性があります。こうした役割が企業の組織改革においてどのように有効に機能するかについても、ANAエアポートサービスとの共同研究を通じて見いだせればと思っています。

 ANAエアポートサービスとは、メンタルが不調になったから対策するということではなく、健康を維持しより活性化するのをサポートする、いわば「メンタルヘルスイノベーション」を起こしていこうという話をしています。

── 企業の間では社員の生産性向上や離職防止のために、従業員満足度の向上を議論する向きが増えています。この観点からも、メンタルケアを起点としたアプローチは社員に支持されるかもしれません。

下山氏 実際、その従業員が勤務先企業に満足しているかどうかというのは、メンタルヘルスの健康度合いと相関があります。過去に私の研究室の大学院生が博士論文で研究したテーマでして、学術的な調査で明らかになっている事実です。

 職場でメンタルが不調になる人は繊細な人が多く、細かいところに気がついたりと優れた側面を備えた人であることも少なくありません。こうした人が生き残らない職場は結果として鈍感で強い人だけが残り、鈍感で強い人ばかりが残る職場ではパワハラ的なマネジメントが横行しがちです。しかしそうしたマネジメントはもう限界でしょう。「優秀で繊細な人」がきちんと働き続けられるマネジメントを日本の職場に広げるべきだと考えます。


高下 義弘


本記事は、日経BP総研とSansan株式会社が共同で企画・制作した記事です。
© 2019 Nikkei Business Publications, Inc. / Sansan, Inc.

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