及川卓也氏といえば、IT技術者から経営者にまで広く名を知られたスター開発者だ。そのキャリアを紐解くと、ディジタルイクイップメント(DEC)、マイクロソフト、グーグル、そしてスタートアップ企業と、常にイノベーションが起きている場所に身を起き続けてきたと言えるだろう。


 及川氏のキャリアを辿れば、私たちのキャリアのヒントも得られるのではないか。創造性豊かな企業を飛び出して、50代でフリーランスになった及川氏に話を聞けば、今の時代に合った新しい働き方を知ることができるのではないか──。


 そんな企画で取材を打診すると、及川氏はふたつ返事で快諾してくれた。本特集「働き方の未来」では、1時間半に渡るインタビューのほぼ全文を数回にわけて掲載する。

父の敷いたレールを進んできたが──

なぜ早稲田大学の理工学部に進学したのですか?

 土木設計関係の技術者だった父の影響ですね。航空測量で有名な国際航業という会社で道路・橋梁の設計をしていたんです。そのせいか父の理系志向がとても強くて……。私自身は理系も文系も、どっちの勉強も好きだったんですけれど、高校2年の時にどちらかを選ばなくてはいけなくて、その時に父の意向で理系に進んだんです。


 今振り返ってみると、私のことをよく理解してくれていたようで、「さすが父だなぁ」と思うことも多いです。父は絶対の存在で、まさに“昭和の親父”でした(笑)。ケンカもしたくありませんし、また、文系に進みたいという強い気持ちもなかったものですから、理系に進みました。

もともとはジャーナリストになりたかった、というお話を伺ったことがあります。

 そうなんです。文章を書いたり、人に物事を説明したりするのがすごく好きで、小学生の時は新聞係をやっていましたし、中学でも学年新聞を発行する係でした。


 中学と高校には日本史の著名な先生が在籍していて、学校の合宿所が長野県にあり、学校活動の一環で古跡発掘調査に参加したんです。それがとっても面白かったので、史学も学びたいな、と思うこともありました。当時の早稲田大学というと、文学部史学科の吉村作治先生が一番活躍されてた時期で、エジプトに発掘に行って数々の発見をされていました。ですから、早稲田で文系に進むなら史学科に行きたいという希望はあったのですが、父の強い意向で理工学部に行きましたね。

お父様の意向に反発することはなかったのですか?

 本当に怖かったので、まったくありませんでした(笑)。ただ、学校から見ると、私は何でも素直に話を聞く生徒ではなかったんです。だから先生も「及川君みたいのが文学部に行くと、学生運動にかぶれてろくな将来はないですよ」と父に伝え、それを受けて父も「確かに卓也の言動を見ていると学生運動に進みそうなところがあるな」と思ったようで、2人が結託したので逃げ道がなくなってしまったという事情もありました(笑)

及川さんは1965年生まれですから、大学時代は学生運動の本当の末期のころというか、バブルでしょうか。

 両方でした。学生運動は本当に末期で、バブルの時代にも入っていたころです。

学生運動にかぶれないように……ということで、早稲田大学という新左翼の牙城に進学されたわけですが(笑)。理工学部ではどう過ごしていましたか?

 その新左翼の話をすると(笑)、理工学部にはまったくいないんです。立て看もなくて、なんて浮世離れしているところなんだ、と思いました。実は理工学部に入るとき、成績が足りなかったんです。私は数学がすごく好きで、理工学部なら数学科に行きたかったんですが、成績が足りない、と。推薦だったので、担任の先生から「及川、数学科は行けなかったよ。理工学部なら資源工学科はどうだ?ほかにも2つくらいには行けるぞ」と。


 ただ、数学をやりたいなら、教育学部の数学科という手もあるんですね。男子高校生でしたから、バブルの華やかな時代にメインキャンパスに行って、楽しいキャンパスライフを送りたいと思って、教育学部に進もうと思ったんです。そうしたら母から連絡を受けた父から急に電話がかかってきて、「卓也、君は資源工学科に行きなさい」と(笑)。反対できる理由もなくて、それで入ったのが資源工学科です。


 今は環境資源工学科と名前が変わっているんですけれど、全国の大学でもその学科を持っているところはなくて、非常に面白い、いろんな勉強ができた学科です。