ヒューマノーム研究所の社長で情報科学の研究者である瀬々 潤氏

「食べる・眠る・働く」のつながりを徹底的に解明する

具体的には、どのようなデータを集めて統合・解析するのでしょうか?


井上氏 まずは、人間の「食べる・眠る・働く」をまずは徹底的に解明しようと思っています。「食べる・眠る・遊ぶ」でもいいんですが、人間の1日の行動は、ほぼこの3つで説明できます。ですから、まずはこれらに関するデータをとって、その関連を見ていこうと。「食べる」ことと「眠る」ことの関連や、「働く・遊ぶ」ことと「眠る」ことの関連が、経験則ではなくデータではっきり見えてきたら、すごいことになると期待しています。


 具体的な内容としては、例えばメタジェンというスタートアップとの取り組みがあります。「食べる」については食事の記録を取りますし、食べたら僕たち人間はみな排泄します。メタジェンは、この便に含まれる腸内細菌のゲノムデータや代謝産物を解析する企業です。「働く・遊ぶ」については、歩数などの活動量や血圧データを集めて解析します。これらのデータと、彼らが集めるデータとを合わせて解析すれば、食習慣と体質、健康状態を結びつけられるかもしれません。


瀬々氏 睡眠を測定するデバイスについても、スマホのアプリや腕時計型の端末、布団やマットレスに敷くタイプなど、かなりの種類が出ています。それだけ睡眠への関心が高いということでしょう。


 これらのデバイスを試したことがある人は分かると思いますが、計測の精度やレム睡眠・ノンレム睡眠の判定にかなりバラツキがあります。じゃあ結局、どのデバイスを使うのがいいのか。そこで、睡眠研究のスタートアップであるニューロスペースと一緒にスリープテックラボを立ち上げ、費用対効果の面も考慮して、デバイスの選定にも取り組んでいます。


今世の中には、さまざまな測定デバイスが出回っています。それらでどこまでのことが分かるようになっているのでしょうか?


井上氏 現状だと、これまではなかなか簡単に見られなかったデータが、気軽に可視化できるようになってきているレベルです。血圧や心拍や睡眠の深さなどですね。デバイスによって精度のバラツキもかなりありますが、個人が手軽に見られるようになってきたのは大きな一歩ではないかと。


 精度の高い測定は、その気になればいくらでも調べる方法があります。例えば睡眠中の脳波を調べることも技術的には可能です。ただ、それを個人の家に置くのは無理がありますし、そもそも頭に電極をつけた状態で普段どおり寝られるかという問題もあります。ですので、手に入れやすいデバイスのなかで、どれを使うとより正確かを比較しながら選んでいます。


瀬々氏 もちろん、今のデバイスで100%完璧なデータを取れるとは思っていませんが、例えばFitbitは歩数計としては十分な精度がありますし、心拍もそこそこの精度でデータがとれます。医療機器レベルではありませんが、活動量の目安を知るには十分な精度です。


 そうやって集めたデータを統合・解析して、その人個人がどうなっていくかを予測する。それを知るために、一人ひとりが自分の意思で今の健康データを取得し、それにもとづいて将来を予測できるようにするのが第一歩です。


井上:ここからは妄想レベルの話ですが、一人ひとりの健康データが貯まり、AIを使うなどして、高精度で関連性を分析したり将来を予測したりできるようになると、こんなことも可能になります。


 例えば、今日はファーストフードを食べたいな、山盛りのラーメンを食べたいなと思ったとき、スマホのアプリで今日これを食べたらどうなるかを調べてみる。すると、「今の食生活を続けていると近い将来こうなります」という予測が返ってくる。それを見て、今日はサラダ中心のご飯にしようと。


 あるいは、「健康データをオンラインのカレンダーと連携させて、今日は調子が悪いから1日の予定を見直しましょう」とか、「明日は大事な会議があるので今日はヘルシーな食事と適度な運動をしましょう」とか。AIの予測に基づいて自分の健康を自分でつくっていけるようになるわけです。


瀬々氏 そういうことを自分の意思と判断でできるようにしたいというのが、私たちの描いている将来像です。自分の体で仮説検証や臨床試験を進めていくようなイメージです。


井上氏 これも妄想めいた話ですが、一人ひとりの人間の将来予測がかなりの精度でできるようになると、人類全体の進化の方向性も見えてくると期待しています。一人ひとりが向かう方向性のベクトルを足し合わせると、人類全体の傾向も見えてくるのではないかということですね。

オープンイノベーションから「知の鎖国」へ

瀬々氏 サービスの形態としては、一人ひとりの健康データを、その人の意思に基づいて社会に提供することも可能にしたいと考えています。一人ひとりの健康データを統合的に解析し、将来を予測するサービスを個人に対して提供する。個人の利用者は、自身の健康データを社会に対して、あるいは特定の第三者に対して提供し、その対価をもらえるようにしたい。 みんなが健康になるし、自分の得にもなる、つまり。そういう循環をつくっていければ、社会全体が幸せになっていくという考えです。


井上氏 自分の取りたいデータを積み立てて、その人が得をする形をつくるのが僕らの役目です。その結果、世界みんなが健康になろうと。いい世界をつくろうというのがヒューマノーム研究所の理念です。


瀬々氏 なぜデータが売れるのか。それを説明するために、僕がよく講演で使うのが、『エコノミスト』の雑誌の挿絵です。少し前までは、石油の流通を握っていれば、多くの富を得ることができました。ところが今は、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon.com)がデータを握って大勝ちしています。少なくともWebの世界ではデータを握ったところが勝っています。


 このデータ重視の流れは生命科学にも確実に押し寄せています。価値があるのはデータです。「食べる・眠る・働く」というのは、その人の経験そのものです。つまり、その人の経験に価値が出てくる時代になるわけです。そうすると、自分が特殊な経験をしたときのヘルスデータが売れるようになるかもしれません。


井上氏 例えば、バンジージャンプやスカイダイビングをしたときに心拍や血圧がどうなったのか。それをVRと組み合わせて五感を再現するとともに、ヘルスデータも体感することができるようになったとしたら……。そういうエンタメに何千円か払う人も出てくるかもしれません。僕なら現実のバンジーは飛びたくないですが、そういう仮想体験なら3000円は出してもいい。そういう特殊な体験が価値になり得るということです。


瀬々氏 ここ最近は、オープンイノベーションが大きな流れになっています。データを公開し、組織や個人の枠組みを越えてイノベーションを加速する。でも、個人でこれだけデータを取れるようになってくると、その特殊な経験こそが価値を持ちます。その体験を無条件でオープンにするのではなく、敢えて閉ざすことで、それに価値を感じる人が出てくるはずです。つまり、個人の特殊な経験が高く売れるようになる。自分自身の体験を特殊化し、自分のなかで積み立てていく。僕らはそれを「知の鎖国」と呼んでいます。オープンイノベーションから「知の鎖国」への流れが起きていくでしょう。


井上氏 お金に対する価値観が変わっているのも重要なポイントです。昔は、労働の対価としてお金をもらっていた。ところが今は、健康のためにお金を払ってジムで体を動かす。あるいは、お金を払って田舎に行って田植えを体験しに行く。富や豊かさの象徴が、お金を持っていることではなく、健康であることにシフトしている。その流れを受けてのヒューマノーム研究所ですし、僕らの活動でその流れを加速させたいとも思っています。


本記事は、日経BP総研とSansan株式会社が共同で企画・制作した記事です。
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